第280号:重みの中に。
今日は東京の妻の実家で目覚めた。
昨日の夜、東京の友人と一緒に飲みすぎたため、頭がガンガンする。
一旦起きて、シャワーを浴びてそれからまた寝た。
今度起きると、東京で合流するクライアントからの着信が・・・。
急いで服を着て、妻のお父さんとろくろくお話しもしないまま、出発してしまった。
お父さんと握手した手には力がこもっていたが、寂しそうな瞳が脳裏に焼きついた。
そこからはトラブル続き。
昨日、銀座のクラブについていって、ちょこっと払っただけなのだが、
財布を見ると本当にすっからかんだった。
相変わらず準備が悪いと反省しつつATMに入ったが、
中国銀行のカードとの相性が悪いらしく結局お金を下ろすことが出来なかった。
そして、クライアントの担当者に連絡してお金を借りる羽目に・・・。
(すいませんでした。)
更に、あいまいにしていたアポが2件あり、そちらへの対応をした。
仕事のほうは、本当にコツコツと改善に取り組んでいる方との内部監査だった。
会話の一つ一つにひたむきさや真剣さが伝わってきて、それが重みとなり、
内部監査をする側にも伝わって、絶賛の雨を降らしたくなった。
「この言葉の重みは何によって作られているのか。」
- 実際に行動していること
- 分からないことや難しいことを自力で乗り越えようとしていること
- 顧客やスタッフへの理解をしながら進めていること
- 自分自身を客観的に振り返り、自分の責任で生きていること
- ユーモアと率直な語るコミュニケーション力
というわけで、私の場合はどうなのかと振り返ってみた。
正直言って、一つ一つどれをとってもまだまだである。
まだまだというのは、100%でないということである。
「何が100%でないと感じているのか?」
昨日、“愛とよろこびで世の中を埋め尽くしてやる”って言ったのに、
道行く人の顔や、自分の身の回りの人を思い出すとそうでない人がいるのである。
自分としては、全ての世の中の人が対象だと思っていたのだが違うのである。
もっというと、目の前にいる人なら全てかというと、それも違う。
人によっては心が震えないのである。
「どんな人に感じないのか。」
- 狡猾な感じのする人
- 何にも考えていない人
- 完璧な人
本当は、どんな人に感じるのかも書けばいいのだが、今日は書かない。
書きながら気がついたのだが、なぜならば、これは私の価値観による判断だからである。
わたしは、一生懸命な人や、努力する人、それから、悩んだり、不安を感じている人をみると、
心が震えて、愛しくて仕方がなくなる傾向があるからである。
もちろん、1人のコーチとして生きていくには、どんな人を支援したいかという視点も大切だ。
しかし、その一方で人を自分の価値観だけで評価し、本当にその人が望んでいることを、
無視してしまうのは違うと思う。
まさに、“誰も間違っている人はいない”のである。
私が、この世の中を愛とよろこびで埋め尽くすためには、自分の心の動かない人も、
積極的に理解し、一緒に心震わせたいのである。
いや、震わせて見せる。
もっともっと、ピンポイントで聴ききるし、いい形で承認のメッセージを伝えたい。
夜は、ある人からお気遣いのメールと電話があり、心が温かくなった。
そして、家に帰り、妻と子供達にギュッとした。
生きるよろこびを頂いたのだと思った。
今日も自分を承認する。
「“愛とよろこびで世の中を埋め尽くす”ということを実践する方向に進んでいたね。」
といってみる。
「もっともっと想えば、いろいろな気付きが溢れてくるよ。」と返って来た。
あの映画のシーンがまたよみがえる。
たしか、「今を生きる」だったかな。
もう一度見てみたい。
わずかのチャンスも見逃すことなく、望みや価値観を見つけて、育てる私で言いたいです。
今日もありがとございました。
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