第119号:思いやり。

今日は朝はゆっくりとおきて、朝食をとった。
今やるべきことが、いまひとつ進んでいないので、気分的には今ひとつである。
それでだけではなく、なんとなく、自分の存在意義を感じにくくなっているような気もする。

朝方は、ある会社のキーマンのコーチングに向かった。
というかISOに関するコンサルティングといったほうが良いかもしれない。
いつも会うたびに、取り組んだ結果や喜怒哀楽が聞けて本当に楽しい。
本人も言っていたが、変化していく自分が感じられているそうだ。

「何が変化を生むのだろうか。」

  1. 自分で考え決定し、行動すること
  2. 繰り返し、自分の想いや強みを明確にすること
  3. 行動できたことを承認すること
  4. 自分の変わりたいという意思や願い
  5. フィードバックや提案に対する姿勢

上記のことを、眺めていると“すなお”という言葉が浮かんだ。
一番大切なのは、本人がありたい姿を明確にして、そこに行きたいという気持ちだ。
コーチという立場からすると、ラポールを築き、信頼関係を構築すると、
素直に話しが聞ける状態になるし、その場で決定したことが行動に変わりやすくなる。
そこ出てくる本当に実現したいと思うことをサポートするのである。

先日もコーチングの中で“思いやり”というキーワードがでてきた。
そして、その言葉をインタネットで調べてもらった。
それと同時に私も調べてみると、次のような孔子の文章と、
ワタミの社長のコメントに出会うことができた。

曾子の曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。
仁以て己れが任と為す、亦た重からずや。死して後已む、亦た遠からずや。

  「仁」にはいろいろな解釈があるが、私は「自分以外の人の幸せを願う心」と理解している。
他者の幸せを願い、実践していくことを「任」として、死ぬまでやり続けるのだと孔子は言っている。
そして、こうも書かれている。

子貢問うて曰く、一言にして以て終身これを行うべき者ありや。子の曰く、其れ恕(じょ)か。
己れの欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ。

  子貢が、生涯行うべきことを一字で表せるかと問うと、孔子はそれは「恕」、
つまり「思いやり」だという。自分が望まないことを人にしないことが「恕」の精神。
この孔子の教えは「山上の垂訓」でイエス・キリストが一番大事にした教え、
「自分がしてほしいことを相手にしなさい」と相通じている。

“仁”と“恕”か・・・、尊敬と祝福とも通ずるところがあるし、
特に、恕の「自分がして欲しいことを相手にしなさい」の部分が、本当にそうありたいと思った。
こうするのが当たり前というこちらのもっているものを押し付けるのではなく、
その瞬間に相手が望んでいることを感じきり、その場に合ったものを提供する。
そして、人の幸せを願う心があれば、かならず、望む方向に導けると信じている。

素晴らしい言葉を並べていく中で、最近の自分はそこからだんだん離れているような気がする。
人を思いやるより、自分の損得や、自分の感情が満たされない部分を補おうとしている。
いわゆる相手への矢印ではなく、自分への矢印が向いている状態である。

みんな一人一人が自分の欲しいものや満たしたいことがある。
私は、自分の軸を大切にしながら、すべての人の幸せを創る人のはずだ。

少し落ち着いてきた。
「あきらめを無くし、生きるよろこびの渦を創る。」
自分がそこに向かえれば、自分自身が幸せになれる。

自分の使命は、独りよがりなものではなく、望まれているに違いないと思います。
思いやりの心を持った私で言いたいです。
今日もありがとうございました。

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