今日は今年初の早朝ミーティングであった。
年始が年賀状に追われた関係で、事務作業が大量に残っていて、
それを片づけていると出発が遅くなってしまった。
おまけにバタバタしていた関係もあり、ノートパソコンを机から落っことしてしまった。
大きな音がしたので、ちょっと嫌な気分になった。
それでも前向きな気持ちになろうと意識して家を出た。
昨日のブログとして書いた本分ということに今日は立ち返って色々と考えていた。
しかし・・・、私にとっては大きなトラブルが発覚した。
これも本分に真っ直ぐに生きられていない自分の不徳のいたすところと受け止めようとした。
そんな時、いきなりパソコンが動かなくなってしまった。
突然、電源が落っこちて立ち上がらなくなるのである。
朝、パソコンを落っことしたときの嫌な気分は的中した。
おそらくハードディスクか何かに物理的な破損が起こったのである。
少しマシンを冷却して、立ち上げなおして、変更したデータだけ何とか抜き出すことが出来た。
ある意味ほっとしたのだが、その一連のトラブルを感じて疑問が湧いた。
「今自分がしていることはどういうことなのだろうか。」
特に、自分のありたい姿に向かえていないと言う事実に愕然とした。
その後、福山、笠岡、里庄へと移動する車の中でそのことについてずっと考えた。
昨年、コーチングラボウエストのSSPに参加してから、
自分の想いに沿って熱く生きることを選んだはずなのに、
最近の自分がそうでないということに気がつき、悶々と車を走らせていた。
そして夜は、東京で活躍する女性のディレクターの講演を聞いた。
自分が欲しいものを貪欲に手に入れようと、のびのびと自由に生きる姿に、
一種の嫉妬のようなものを感じた。
何かにもたれかかり、いつも相手の言動に影響を受け、
そればかりに気をとられ、自分の本当にしたいことに命を燃やし切れていない。
そんな私に苦しいほどの情けなさを感じた。
“生きざま”という言葉が浮かんだ。
自分の生き方は人に愛とよろこびの感動を与えられているか。
自分の背中を自信持って見せることができるか。
いつも今を本気で100%で生きているか。
そして、自分の最後の日、後悔することなく旅立つことができるか。
少し、今の自分を変化させようとしてる自分に気づくことができた。
今日も自分を承認してみる。
「自分の魂を燃やして熱く生きる自分が本当に好きなんだね。」といってみた。
「拳の儀式で大学時代の熱く燃える自分を思い出してみたら。」と返ってきた。
あきらめ元気を失っている私の大切な人に向けてその熱い想いを伝えたいです。
今日もありがとうございました。
絶対にできるよ。
今日は始動から2日目であるが、元旦の計に基づいて動けていない。
要するに、自分の「好きなことだけやる。」ということである。
この言葉について、あれからいろいろと吟味しているのだが、
どうしても腑に落ちないことがあるのも事実である。
「腑に落ちない理由はどんなところにあるか。」
こんな風に考えていると、昨年の末から続く、相手の気持ちを深く聴く、
つまり、想いや望んでいること、喜怒哀楽をしっかりと受け止められない自分と
関係があるように感じるのである。
今年は阿智神社に行ったときにおみくじを引いた。
結果は吉と出たのであるが、その中にとても気になるキーワードがあった。
「本分に徹せよ。」
人生には様々なよろこびやうれしいこと、楽しいこと、さらには誘惑があるのだが、
自分の人生の目的や使命に徹しなさいということである。
「私の本分は何か。」
昨年ブログを書き始めてから、いろいろな言葉を生み出してきた。
協働のよろこびを創る
あきらめをなくし、生きるよろこびを創る
この世の中を愛とよろこびで満ち溢れたものにする
これが私の本分であり、コンサルティングやコーチングを通じて提供するのである。
本分に向かって脇目もふらず、真っ直ぐに生きている自分でありたいと思った。
そんなことを考える最中、食後に打合せをした後、交通事故をしてしまった。
これも私の不徳のいたすところであり、本分に徹することが出来ず、
浮ついた心の表れだと思った。
今日も自分を承認する。
「もう一度、本分という言葉に本来の自分を発見することが出来たね。」と言ってみた。
「初心に戻れということじゃないかな。」と返って来た。
自分が感じたことを信じて、何度も何度も想いを語れる自分で言いたいです。
今日もありがとうございました。
またきてくださいね。